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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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吉川宏志ブログ(シュガー・クイン日録)

感性の〈型〉(2008年10月8日)
text 吉川宏志

 長めの評論を、ようやく書き終わった。(とはいっても20枚くらいだけれど)
 締め切りが迫ってきて書きあぐねていると、いろいろ不思議なことが起きる。今回もたまたま古本屋に入ると、自分が書いていることのヒントになるような本が、安売りコーナーに並べてあったりする。もちろん、買って帰って、そこから引用して、書けなくなっていたところを突破するわけである。こういう偶然が起きることで、毎回何とか、締め切りをクリアしている。
 たぶん、締め切り近くなって神経が緊張すると、身の回りに対する感受性がアップするのだろう。だから、ふだんは見えていなかったものが見えてくる。
 高野公彦さんなど、〈締め切り〉の効用を説く人は少なくないが、その理由の一端はこのようなところにあるのではないか。
 とはいえ、また別の締め切りが近づいていて、沈鬱になる。

       *          *

    遥かなる所に籠りて、都なる人の許(もと)へ、月の頃遣(つか)わしける

  月のみや うはの空なる かたみにて 思ひも出でば 心かよはん

 今年の夏の休みに、西行の『山家集』(新潮日本古典集成)をずっと読んでいた。私は古典和歌をそんなに読み慣れているほうではないので、初めは退屈に思いながら読んでゆくわけである。けれども、途中からだんだん息が合ってくるような感じがしてきて、読むのが自然に楽になってくる。『新古今和歌集』のように、さまざまな人々の名歌が並んでいるアンソロジーよりも、むしろ読みやすい気がする。『新古今集』では、一首一首で立ち止まりながら読むことになるのだが、『山家集』では、一人の人間の息づかいを、ずっと感じながら読み進めていくことになる。だから、身体が鋭敏に共鳴するような状態になるのであろう。難解な歌も少なくはないのだけれど、リズムの力によって、なんとなく読めてしまう。〈身体で読む〉というのはこういうことなのだなと、改めて実感するわけである。
 最近、「塔」の選歌をしているときに出会った歌に、

  ぎくしやくと読み始めたる歌集にて百頁あたりから作者とあゆむ
                        豊島ゆきこ
  
という一首がある。この作者も私と同じような体験をしているのだなと思い、いたく共感したのであった。
 さて、引用した西行の一首である。
 上空に見える月だけが、心が落ち着かないでさまよっている私の形見であり、その月を見て私を思い出してくれるなら、私とあなたの心は通うだろう。
 だいたい、このような意味になるのだろうと思う(専門家の目から見たら、厳密でないところはあるかもしれませんが)。
 西行と相手の人(妻とする説もあるらしい)は、遠く離れた別々のところにいる。けれども、同じ月を見ることによって、心は伝わるだろうというのである。
 これはコミュニケーションの本質をとらえた歌だなあ、と感じて、とても印象深かったのである。
 自己と他者のあいだで、言葉も無しに、直接思いが伝わるということは、おそらくめったにないのだろう。「以心伝心」という言葉はあるけれども、恋愛中のある一時期などのように、非常に限られた場でしかそれは起きない。サッカーなどのスポーツ選手の場合には、何も言わずに意思が伝わるということがあるらしいが、それも特別なケースだ。
 しかし、同じものを見ることによって、思いが一つになるということは、しばしばあるのだと思う。月を見て、西行の心は、ある状態になる。相手の人の心も、月を見て、ある状態になる。そのとき、二人の心は同じになっているはずだと、西行は考える。
 もちろん、月を見て、相手の人がまったく別の心理状態になってしまっては、このコミュニケーションは成立しない。よく言われることだが、同じ月を見ても、異文化の人ならば感じ方はまったく違うだろう。けれども、西行の場合は、相手の人も、自分と同じ感性の〈型〉をもっていると確信していた。感性の〈型〉を自己と他者で共有しているとき、同じものを見るだけでも、思いが通じ合うという、超越的なコミュニケーションが生み出される。
 西行の相手の人も、まちがいなく歌を詠む人であっただろう。歌という〈型〉を共にもっているからこそ、同じ月を見るとき、同じことを感じるだろうという信頼を、西行はもつことができたのである。現代の短歌の作者と読者のあいだにも、これと同じような信頼関係は、たしかに存在しているのではなかろうか。
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