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吉川宏志ブログ(シュガー・クイン日録)

「定説」と新しい読み(2008年10月12日)
text 吉川宏志

 加藤治郎さんが、角川『短歌』9月号に「前衛短歌という栄光」という文章を書いている。
 その中の、

  革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
                    塚本邦雄『水葬物語』(1951)

という一首の読みが大変おもしろかった。少し長くなるが、そのまま引用する。

 「従来の読みは、革命歌作詞家の欺瞞によって、革命が解体してゆく様というものであった。この解釈は「液化」を負のイメージと捉えたために生まれた。ピアノが溶け出すのは、この作詞家に象徴される革命の胡散臭さに嫌気がさしたためというものであった。そうだろうか。液化してゆくピアノ。この超現実的なイメージは貧しいだろうか。そうではない。ピアノが溶けてゆき黒い液体が拡がってゆくイメージは、実に魅力的である。耽美的な暗い喜びに充ちた情景ではないか。『水葬物語』には〈銃身のやうな女に夜の明けるまで液状の火薬填(つ)めゐき〉という歌がある。この場合「液状の火薬」は露骨に性愛を示している。液化には性的なニュアンスを読みとってよいのだ。それは少なくとも衰微してゆくイメージではない。個体(ママ)が液体となり流動化してゆく。それは生の力に溢れた像である。
 革命歌作詞家とは誰か。塚本邦雄その人である。そう読んでみたい。『水葬物語』巻頭の作品だ。これから短歌の革新を遂行するという自己宣言なのである。ピアノとは何か。それは他でもない短歌である。近代短歌は枯渇した。今こそ、短歌を蘇生させなければならない。革命歌作詞家が舞台に上がった。彼が凭りかかると、ピアノは液体となり再び流動する。革命は今、始まったばかりである。」

 じつに大胆な提言で、いろいろと考えさせられた。短歌一首を、単なる作品として読むのではなく、〈短歌史〉の中に位置づけて読もうとする。加藤さんの読みの姿勢がよくあらわれている一節であろう。

 この読みには二つポイントがある。
 まず一つは前半の、「液化」というイメージをどう捉えるか、という問題である。
 以前なら溶けてゆくピアノを、サルバドール・ダリの絵あるいは原爆によって溶けた物体などと重ね合わせる読みが多かったように思う。ダリの絵も世界大戦の予感を帯びたものであり、溶けてゆく時計に、私たちは奇妙でまがまがしいものを読み取る。そして同じように塚本の歌にも、妖しい美しさとともに不吉な光を感じ取ってきたような気がする。
 ところが、『アビス』(1989)、『ターミネーター2』(1991)などの映画で、液化して攻撃するものの美しさや強さが、CG(コンピュータ・グラフィック)により鮮明に描かれるようになった。液化するピアノも、現在なら映像的に容易にイメージできる(塚本の想像力が、『アビス』を先取りしていたと言ってもいい)。ただ、それに伴って、「液化」のイメージが、不気味さよりもアニメ的に変移してきたのではないか。
 現在のイメージを、過去の作品に遡及させることについての是非はあるけれども、塚本邦雄の一首を、昭和20年代に読んだ読者と、CGの映像が蔓延している現代に読む読者では、感受の仕方に非常に大きな差があらわれるはずである。私たちはもはや60年前の〈眼〉に戻ることはできない。その感性の違いは、たしかに歌の読みを大きく変えていくだろう。

 もう一つは、「革命歌作詞家」を塚本邦雄本人と捉える点である。
 加藤治郎さんは、

 「前衛短歌は、作中の〈私〉が作者であり、歌われている内容は事実であるという近代短歌の限界を超えた。」(『井泉』2008.3)

と書いている。けれども、この歌については、塚本邦雄の伝記的な事実(前衛短歌運動を開始・推進したこと)と結びつけて解釈しようとしている。それも非常に興味深かったのである。
 塚本邦雄はたしかに、「作中の〈私〉」と「作者」が別物であることを、作者として主張した。けれども、読者の側が「作中の〈私〉」を「作者」と重ね合わせて読むのを避けることはできない。現実を超えたものを詠んでいるように見える前衛短歌の作品であっても、読者は、生身の作者の反映を無意識に読もうとする。〈私〉の問題は、作者側としては終わっているのかもしれないが、読者論としては今でも結着がついていないテーマなのである。 
 加藤治郎さんの読みは、このようにとても刺激的な問題を提起している。

 私は、塚本邦雄の歌を、加藤さんの新しい解釈で読むのも、おもしろいのではないかと思っている。ただ、その前提としていくつか考えておくべきことがあるだろう。
 一つは細かいところなのだが、加藤さんは「革命歌作詞家が舞台に上がった。」と、コンサートの舞台の場面を想定しているようなのだが、「凭りかかられて」は演奏しているというより、休憩してピアノにもたれているイメージと取るほうが自然なのではなかろうか。また「作詞家」なので、実際に演奏するよりも、影で演奏家を操ろうとする存在のように、私には感じられる。そのあたり、加藤さんはどのように考えているのだろうと思ったのである。
 もう一つ、この一首は「未来史」という「平和について(10首)」「市民(10首)」「雨季に(9首)」で構成された一種の連作の冒頭の歌でもある、ということだ。「平和について」には、

  元平和論者のまるい寝台に敷く――純毛の元軍艦旗
  聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫 
  萬国旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戦争(いくさ)と平和と危機と
     
といった歌が含まれている。戦争が終わり、今は平和に見えるけれども、背後には「軍艦旗」や「火薬庫」などが隠されている危うい情況を、未来の或る国の歴史に仮託して、塚本は表現しているのだろう。「雨季に」には、

  つひにバベルの塔、水中に淡黄の燈(ひ)をともし――若き大工は死せり

という歌もある。巨大な文明が作りだされる一方で「若き大工」(イエスのことであろう)が死に、救世主の訪れることのない不安感も漂わせている。
 余談になるが、

  楽人を逐つた市長が次の夏、蛇つれてかへる――市民のために

という歌もあって、これは現在、どこかの知事が、予算削減のために交響楽団を無くそうとしている話を連想させる。ポピュラリズムの危険性を、これも予言した歌なのかもしれない。
 話を元に戻して、この連作の中で、ピアノの歌を「短歌の革新を遂行するという自己宣言」と読むと、かなり無理が生じてくるのではないか。
 偽りの平和を「革命」によって変革しようとする勢力が存在するが、彼らさえ欺瞞に満ちており、どろどろとした闇を抱えもっている。「革命」という言葉はたしかに魅惑的だが、勇ましく「革命」を謳う人々に、ほんとうに未来を委託することができるのだろうか。――そのような疑念がこの歌に込められていると取ったほうが、連作の中の一首としては、切実な響きをもつのではないかと思う。
 もちろん、ピアノの歌を一首だけ切り取って解釈する読みがあってもいい。しかしそれだけでは、新しい読みとしての説得力が弱まってしまう。この一首を「未来史」の中でどう読むか、というテーマで、加藤さんが再び論じられることを私は願っている。

 塚本邦雄のピアノの歌で大切なのは、「革命」という言葉が、現在では想像できないくらい重みをもっていたということだ。
 太宰治の『斜陽』(1950)には、

 「私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。」

という有名なフレーズが出てくる。『水葬物語』(1951)とほぼ同時期である。熱く美しく語られていた「革命」という言葉に、塚本はシニカルな目を向ける。それは当時にしてみれば、かなり思いきった表現だったのではなかろうか。「革命歌作詞家」というカリスマ的な存在を揶揄するのであるから。この反時代性に、塚本邦雄の凄さはあるのだ。
 「革命歌作詞家」の欺瞞性を読むという「従来の読み」は、塚本の鋭敏さと勇気を捉えているという点で、非常に深いものであったのだろう。ところが、この読みが定説化され、「革命」という語も輝きを失っていくうちに、しだいにその重要性が理解されにくくなってきたのではなかろうか。
 思うに、短歌の読みは「定説」が決まることによって、〈意味〉が固定してしまい、その歌の新鮮さが失われていくという傾向があるのではないか。短歌にとって、〈意味〉が揺れ動くということは、まことに幸福なことであるのだ。
 そのためには、「新しい読み」を生み出していくことが大切であるし、それと同時に「従来の読み」(定説)を再確認することが必要なのではないかと思う。そのどちらが欠けてもよくないのである。「定説」というのは、ただ祀り上げているだけでは必ず腐敗していく。「定説」を壊そうとする動きがあることによって、「定説」はみずみずしい生命感を取り戻すのだともいえる。
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