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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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吉川宏志ブログ(シュガー・クイン日録)

「読みの応酬」について(2010年8月5日)
text 吉川宏志

 暑いですね。
 冷房のない部屋で短歌の仕事をしています。
 南国生まれなので、ある程度は暑さに強いのですが、最近はかなりきついです。頭がぼうっとしてきます。
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 『まひる野』8月号の時評は「〈読み〉の問題」というタイトルで、米倉歩さんという人が、私の評論について取り上げてくださっている。
 私の評論は『短歌現代』6月号に書いた「〈読み〉と他者」というもの。
 大辻隆弘さんや岩井謙一さんの歌の〈読み〉をサンプルにして、次のような問題について書いた。

・短歌の〈読み〉は、読者の自由であるべきだ。基本的にはどのような読み方をしても間違いとは言えない。
・しかし、実際の場面(評論や歌会など)では、不快な〈読み〉やどうしても認めたくない〈読み〉も出てくる。そのような〈読み〉に対し、私たちはどのように向き合っていけばいいのか。

という、私の中では大きなアポリアと感じることについて書いている。絶対的な〈正しさ〉が存在しないとき、論議あるいは対話というものをどう成立させていけばいいのか。これは短歌だけの問題ではなく、政治などの場でも重要になっているのではないか。
 私はこの問題について、まだ答えを出せていないのだが、鴨長明『無名抄』の一節をヒントに、解決の糸口になると思われることを述べてみた(興味がある方はぜひ読んでみてください)。
 これは私にとっては切実な関心事なのだが、もちろんあまり深刻にとらえていない人もいるだろう。米倉歩さんはかなり楽観的なのだろうと推測する。米倉さんは、

====引用ここから====
 そうかなぁ。各人がそれぞれの経験および価値観にのっとって一首を解釈する権利を有することと、自分の価値観に合わない読みを受け入れなければならないこととは、違うことなんじゃないか?
====引用ここまで====

と述べ、矛盾が存在するとは感じていないようだ。そして以下のような結論を書いている。

====引用ここから====
 大切なのは、自分がおかしいと思う読みに出会った時に「ちょっと、それ違うんじゃない?」と言えることであり(中略)、同様に自分の読みもまた、他者の異議申し立てによって変更される可能性があるという覚悟を持つことだ。そんな読みの応酬を厭わない態度こそが、「正しい」のではない、「豊かな」作品の読みにつながるのだと思う。
====引用ここまで====

 「読みの応酬を厭わない態度」が大切だという米倉さんの主張に、私も全面的に賛成する。
 私も大辻隆弘さんとの共著『対峙と対話』や『いま、社会詠は』などを刊行することで、価値観や考え方の違う人といっしょに、どのように歌を読んでいくか、という問題について考えてきた。
 ただ、実際に「読みの応酬」をしていくのは、なかなか難しいことである。2007年の『いま、社会詠は』の鼎談で、私は、

「対話というのは簡単そうに見えるけれども実は全然違っていて、対話をするのは本当に難しいんだと。これをまず押さえておきたいのですね。」

と発言したのだが、これは今でも同じ感覚をもっている。
 たとえば、「リアル」「実感」という言葉は、短歌の批評でよく使われるが、何を「リアル」に感じるかは人によってまったく違っている。だからなかなか対話が成立しない。それで、そもそも「リアル」とは何か、「実感」とは何なのか、という根本を考えていく必要を感じる人たちが出てくる。近年の「リアル」に関する論議は、関心のない人からは、「なぜ不毛な議論をしているのだろう」と思われたようだが、対話をするための共通基盤をどのように作っていくか、という切実な要求から生まれてきたものだったのである(何らかの土台がなければ、対話そのものが成立しませんからね。)
 米倉さんが「読みの応酬」が重要だと考えているのはありがたい。今後の批評の中で、ぜひ具体的な作品を通して、他者と積極的に論議をしていってほしいと思う。困難だが、きっと価値のある仕事になるだろう。

 しかし、ちょっとだけ気がかりな点がある。
 米倉さんは、私の文章を引用してこんなことを書いている。

====引用ここから====
 「大辻隆弘の場合は「時代に対峙する」という枠組みで歌を読んでいるし、岩井謙一の場合は「葛原妙子はキリスト教信仰者であった」という枠組みで歌を読んでいるように感じる。そのとき、歌一首の読みは、どこか歪んでしまう。(中略)何らかの先入観があるとき、〈読み〉は硬直してしまう。これは恐ろしいことだ。」
 別に恐ろしくはない、と思う。人は、何らかの先入観や思想的枠組みなしには、世界のどんな些細な物事をも「解釈する」ことはできないのだから。それに即した読みを「歪み」と言ってしまうとき、そこには歪んでいない何か、すなわち唯一の正しい読み、というものが暗に想定されている。吉川自身の読みもまた、自らが無意識のうちに採用している読みの枠から自由ではあり得ないということを、うっかり忘れてしまっているように見える。
====引用ここまで====

 しかし、私の実際の文章は、こうなっている。

「【大辻や岩井は優れた読者であると私は信頼しているのだが、それでも】何らかの先入観があるとき、〈読み〉は硬直してしまう。これは恐ろしいことだ。【私も自戒したいと思う。】」(【 】が引用から省略されている部分)

 米倉さんの言われるように「歪み」という言葉は誤解を招いたかもしれないが、私がここに書いているのは、「先入観があるとき、自分が正しいと思っているのと別の見方があることに気づけなくなってしまう、というのは怖いことだなあ」ということである。「歪み」が怖いと言っているのではない。私自身にも、ほかの見方があることに気づけなくなる傾向があることを怖いと言っているのである。だから、この評論の最後の部分で、「自分を超えている他者」(自分が思ってもみなかったような発想をする他者)を感知することが大切だ、と書いているわけである。もちろん米倉さんの言うとおり、人間は先入観から逃れられない存在だが、先入観から脱しようとする努力はできる存在だと、私は考えている。
 米倉さんは「私も自戒したいと思う。」という部分を引用から消すことで、「吉川自身の読みもまた、……読みの枠から自由であり得ないということを、うっかり忘れてしまっているように見える。」というふうに、「歪めて」書いているように見える。(この場合は「歪み」という言葉を使ってもいいよね)
 これはもちろん米倉さんが意図的にやっていることではないと思うのだが、私としてはちょっと違和感をもつ書き方ではあった。
 対話をする場合、相手の書いていることを、丁寧に読むということが最も大切なのではないか。しかしそれが意外にできないものなのである(これはもちろん私も含めて)。やはり対話というものは難しい。
 だから、今後、米倉さんが「読みの応酬」をされていくにあたっては、まず相手が何を書こうとしているのかをじっくり読むということを、心がけていただければとおもう。

 米倉歩さんという人は初めて知ったのだが、『まひる野』に次のような歌を載せている。

  この世からこぼれてしまわないように犬の頭をゆっくり撫でる
  夜の川だれかが水を打つ音の肉打つような音の響けり

 孤独感が「犬の頭」や「水を打つ音」という具体を通して、やわらかに表現されている。一首目の上句の句またがりや二首目の「音」の繰り返しなど、リズムに心情が添っているところもいい。たぶん若い方なのだろうが、力のある作者だと感じたのであった。
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