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〈こゑ〉を聴き取る読み(2008年8月6日)
text 吉川宏志
前回書きそびれたのだが、「シュガー・クイン日録」というタイトルは、私がいつも乗り降りする駅の名前からとった。(http://www.keihannet.ne.jp/eiden/odekake/odekake.php)
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最近は、歌の〈読み〉について考えていることが多い。 小島ゆかり歌集『ごく自然なる愛』に、こんな歌がある。
迢空の声知らねども月の夜はそのこゑ聞こゆ「河原菅原」
釈迢空の声は、あるいは録音が残っているのかもしれないが、私も聴いたことはない。それなのに、私も小島さんと同じように、迢空の声をなんとなく〈知っている〉ような感じをもっている。
ながき夜の ねむりの後も、なほ夜なる 月おし照れり。河原菅原 『海やまのあひだ』
小島さんの一首はこの歌を踏まえている。永遠に月夜が続いていくような不思議な光景を歌っていて、鮮烈な印象を残す歌である。この「河原菅原」は、現実と異次元の境界を流れる川の岸辺でもあるのだろう。 この歌にかぎらず、釈迢空の歌には独特の声調があって、低いつぶやきのような〈こゑ〉が響いている気がする。それはもちろん「、」や「。」や一字あけを用いた特異な表記法の効果が大きいのであるが、一語一語ぷつぷつと途切れるように、ゆっくりと迢空の〈こゑ〉が伝わってくるのだ。 しかし、いま私が聴いている〈こゑ〉は、いったい誰の声だろう? それは決して実際の釈迢空の声ではない。なぜなら、私は迢空の声を聞いたことはないからだ。 それでは私が勝手に作り出した幻聴なのだろうか。けれども、それを聞いているのは私だけではなく、小島ゆかりさんも、おそらく似たような〈こゑ〉を聞いているはずである。釈迢空の歌をよく読んでいる人であれば、きっと聞こえているだろうと信じられる〈こゑ〉なのである。自分勝手に作り出したものだとは言い切れない、一種の信憑性があるのだ。 この〈こゑ〉は、作者の声でも読者の声でもなく、いわば作者と読者のあいだに生まれている声なのである。自己と他者のあいだの声と言ってもいい。 短歌を読むということは、この第三の声を聴き取ろうとする行為なのではなかろうか。もちろん、それは短歌の場合だけに起こる現象ではない。だが、〈こゑ〉が響いてくるかどうかが、短歌を読んだときの印象を大きく左右することは、確かな事実であるように思われる。
読みゆきて会話が君の声となる本をとざしつ臥す胸の上 『相良宏歌集』
小説を読んでいるときにも、このように書かれた文章がなまなましい響きをもって感じられることはある(この歌の場合は、小説の中に恋している女性の声を聴き取っているのであるが)。また、評論であっても、内田樹や加藤典洋などの文章の場合、まぎれもなく筆者の肉声のようなものが伝わってくる。しかし、一般的な新聞記事などでは、そうした〈こゑ〉が聞こえることは、まずない。 総じて言えば、〈こゑ〉が聞こえてこない文章ほど、さらさらと読める。そして、読んだあとに疲労感を感じることが少ない。だから、新聞はいくらでも短時間で読める。 それとは逆に、歌集は、字数が少ないにもかかわらず、一冊読んだあとは、どっとくたびれる。まさに身体を使って読んでいる感じがするのである。 〈こゑ〉を聴き取るには、身体的な読みをしなければならない。このこともまた、間違いの無い事実であると思う。
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