自費出版書籍写真
トップページ
新刊案内
週刊時評
大辻隆弘ブログ

吉川宏志ブログ
好評既刊一覧
既刊書籍一覧
短歌キーワード検索
青磁社通信
バックナンバー
自費出版のご案内
短歌界リンク
掲示板


◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールにてご連絡ください。



ご注文・お問い合わせは


〒603-8045
京都市北区上賀茂豊田町40-1

TEL.075-705-2838 FAX075-705-2839

E-mail
seijisya@osk3.3web.ne.jp


◆ ブログ閲覧ページ ◆
吉川宏志ブログ(シュガー・クイン日録)

仮定法の読み・複線的な読み(2009年7月20日)
text 吉川宏志

  鶏頭の十四五本もありぬべし
              正岡子規

 「船団」の最近号で、坪内稔典さんが、〈正岡子規〉という署名がなければ、この句は良いと思えないのではないか、と厳しく書いていたのが、印象に残っている(引用したいのだが、なぜか雑誌が見つからない。すみません)。
 「現代詩手帖」7月号の高柳克弘さんの俳句時評にも、この議論のことが取り上げられていた。
 作者名によって、作品の評価が変化するというのは、俳句および短歌で顕著にあらわれる問題である。藤原定家も『毎月抄』で、

 「主(ぬし)によりて歌の善悪をわかつ人のみぞ候める。」(作者によって歌の善悪を判断する人ばっかりです)

と書いている。非常に昔から存在しており、短詩型の根幹にも関わってくる問題なのであろう。だから、多くの人の関心を引きつける力があるのだ。
 ただ、この問題の難しさは、論じるさいに、「子規の作品と知らなかったら……」という仮定法でしか語れないところにある。子規について全然知らない読者を見つけることができたとしても、その中には、さまざまな感受性の人間がいるだろう。この句をおもしろいと感じる人もいれば、つまらないと思う人もいるはずだ。それではどの人を基準にすればいいのか。
 だからこの議論は、非常に恣意的なものになりやすいように思える。

 じつは、私は、小学生のころ、授業の中で、まったくの白紙状態でこの句を読んだことがある。そのときの印象は今でもおぼえている。
 私は「鶏頭」というのが、あの花のことだとは思わず、ニワトリの頭だと思ってしまった。だから、なんだか無気味な句だなあ、と感じた。切られたニワトリの首がいくつも並べられている光景をイメージしてしまったわけである。
 学校の先生から、〈正解〉を聞いても、やはり怖いような感じはずっと残った。
 私は小学生の時点では、子規の人生についてまったく知らなかった。それでも、かなり鮮烈な印象を受けたことは間違いない。
 だから私は、この句は子規という作者名がなくても、ある程度は成り立つ句だろうと、個人的には感じている。
 少なくとも、「鶏頭」以外の植物では、この凄みのようなものは生まれてこない。言葉を置き換えようのない句であることは確かなのではなかろうか。置き換えのできない言葉の緊密性を、評価することは可能であるようにおもう。

           *                   *

 小高賢さんは、最近刊行された『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』の中で、作者と作品の関係という問題について、幾たびも触れている。上田三四二は、癌という大病に耐えながら文学に生きた歌人である。そのような歌人像があるために、歌の読みにどうしてもバイアスがかかってしまう、というのである。

  いつまで生きんいつまでも生きてありたきを木犀の香のうつろひにける
                    上田三四二『照径』

 たとえば小高さんはこの歌などを引用して、こう述べている。 

「(前略)上田三四二という署名がなかった時、はたして切実感が伝わってくるのだろうか。そういうかすかな疑問もかすめる。
 無署名で、歌会の批評にさらすことを考えてみよう。上三句に具体性がなく、その内実が分からない、あるいは下句の「木犀の香」が上句を支えきれていない、というような意見が、おそらく続出するだろう。上田のもつ場を除けば、そういう感想が生まれて不思議はない。ところが、上田三四二という歌人を知っている、あるいはその生涯が背景として、情報として読み手にインプットされる。すると、作品はまったく異なった顔をもって立ち上がってくる。むしろ具体性がないことが、かえって読み手の想像力を刺激する。短歌という文芸のおもしろさであり、パラドックスである。」

 たしかに、この歌を無署名で読んだとしたら、上句がやや大げさに感じられるだろうと思う。しかし、上田三四二の歌として読むと、木犀の花が過ぎ冬に入ろうとしていく季節のうつろいと、自らの生命の終わりが近づいてくる焦りや不安や悲哀が重ねられていて、しみじみとよく理解できるような気がする。そのように読んだとき、この歌が大げさだとはまったく感じない。
 小高さんが「パラドックス」と言うとおり、署名によって読みが変化することは、短歌の長所でもあり短所でもあるのだろう。短歌の読みの不安定さ・不確実さを、改めて認識させられる。

 塚本邦雄は、次のように書いている。

「虚構の中にさえ未練がましくちらつく「私」を憎み、一人称を廃することによって最初から普遍性の奪回を試みもした。一人称の「われ」を、特定の個人、即私自身ではなく、人もしくは人間の強勢として採用したのはその後であった。戸籍上の私は作品の何処にも棲息しない。否生存を許さない。現身(うつしみ)の即虚妄の「私」は、しかしながら作品中の「私」にあらゆる悲惨と栄光を負わせようとした。人間、この崇高にして猥雑極まる存在がそのようなクレドで律し切れるものではない。律し切れぬ不如意に時として私は唇を噛んだ。私は「私」を昇華しおおせたか。駆逐し追放し抹殺することに成功したか。」(『花隠論』「星夜の辞――島田修二小論」)

 塚本は、現実の「私」と作品中の「私」を完全に切り離そうとする。けれども、人間という「崇高にして猥雑極まる存在」は、現実の「私」を消去し、作品中の「私」だけを存在させようとする試みを許さない。いくら消そうとしても、作者の生活の影が作品からにじみだしてくることに、塚本は絶望している――いや、絶望しつつも、言葉と生身の人間が結びついていることに、ひそかなよろこびを感じていたのではないだろうか。塚本ほど「私」を否定しようとした歌人はいないが、「私」を否定すればするほど、存在がたしかになっていく「私」を、逆説的に愛していたようにおもうのである。そうであるからこそ、私生活を誠実に描いていく島田修二の歌を、塚本は批判しつつも最終的には高く評価したのだろう。
 塚本は、写実的な作品を批判して、「作品と作者はまったく別である」ということを主張した歌人だと、一般的には考えられている。
 けれども実際は、そう単純に図式化できるものではなく、「まったく別である」ということを証明しようとして、どうしても証明できないものを生み出してしまった歌人であるように、私には思われる。そうして生み出されたもののもつ異様な迫力が、塚本邦雄のもっとも大きな魅力になっているのではなかろうか。

 塚本邦雄の試行が示しているとおり、作品と作者を切り離して読むことは、最終的には無理なのだろう。詩歌とは、「声」にもっとも近い言葉である。声と発声する人の身体を切り離すことはできない。それと同じように、詩歌と作者の身体性は緊密に結びついているのだ。
 しかし、塚本邦雄の試行が無駄だったというわけではない。
 それどころか、非常に大きな遺産なのだと思う。
 塚本邦雄が生み出した〈読み〉の最も重要な点は、「もし、無署名で読んだとしたら・作者の人生と切り離して作品だけを読んだら」という仮定法の読みを前景化したことなのだ。
 つまり、こういうことだ。
 私たちは、ある作品を、一つの見方からしか読んでいないことが多い。
 ところが、「もし、無署名で読んだとしたら」という問いが存在する場合、現在の自分から離れて、別の人間の視線を想定して作品を読むことになる。もちろん、まったく別な人間に成り切ることはできないから、その視線はバーチャルなものだ。ただ、一度自分の主観を疑うことによって、他の角度からの読みが意識されることになるのである。
 そのため、単線的な読みしかできない読者から、複線的な読みができる読者へと、読む主体がレベルアップする。たとえば上田三四二の歌であれば、ただ作者の病に同情しているのではなく、「歌会で無署名で読んだら」という仮定法の読みをすることによって、読みの幅が広がり豊かになっていくのである。そうした読みによって、歌の奥行きはさらに深くなっていくはずだ。
 仮定法の読みが正しいかどうかは、それほど問題ではない。そうではなく、今の自分の読みだけを絶対化せず、別の視点からの読みを想像してみる、という余裕が、詩歌の読みでは大切なのだ。
 「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句の読みが、今でも話題になるのは、「もし自分が別の人間だったとしたら、この句の風景はどのように見えるのだろうか」という魅力的な問いを、この句が誘発してくるからではなかろうか。坪内稔典さんのように否定的に読む読者が存在することで、さらにこの句はおもしろさを増すのだとも言える。

  「好きだつた」と聞きし小説を夜半に読むひとつまなざしをわが内に置き
                     横山未来子『水をひらく手』

 恋人が「好きだった」と言った小説を読んでいるとき、恋人のまなざしを意識しながら読んでいることに気づいた、という歌。「あの人はきっとこの場面に感動したのだろう」とか想像しながら小説を読んでいるわけである。たしかに、私もそのような体験をしたことがある。横山さんの歌は〈読む〉という行為の本質を、じつに適確に捉えている。
 〈読む〉ということは、自分ひとりで行うものではない。自分の内部に、仮想的な他者を棲まわせながら、言葉を認識していく行為なのである。自分の内部に、自分以外の「まなざし」をもつことは、読みをたしかに豊かにしてくれる。
Copyright(C)2001 Seijisya.All Rights Reserved Warning Unauthorised Duplication Is Violation Of Applicable Laws.