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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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吉川宏志ブログ(シュガー・クイン日録)

牧水シンポジウムその他(5月18日)修正版25日
text 吉川宏志

ついつい更新ができずにおりました。
以下のようなシンポジウムを行いますので、ぜひおいでください。
よろしくお願いいたします。

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「牧水研究」京都シンポジウム

  ◆今を生きる若山牧水◆


  現在、牧水の歌はどのような価値をもつのか。
  牧水生誕125年の今年、京都で自由に語り合います。


   ●日時: 平成22年6月6日(日) 午後1時〜午後5時
   ●場所: ハートピア京都(京都市地下鉄「丸太町駅」下車すぐ)3階大会議室
   ●参加費:2000円(事前申し込みは不要です)


〈開会あいさつ〉 長嶺元久(「牧水研究」事務局長)

〈基調講演〉 「啄木の死から牧水へ ―闇を行く心―」
        上田博(甲南大学大学院講師・日本近代文学)

〈発表〉   「牧水の故郷」
        興梠慶一(「牧水研究」編集長)

〈鼎談〉   「牧水と現代」
        伊藤一彦 + 川野里子 + 吉川宏志


                     総合司会 なみの亜子


協賛:宮崎県日向市  日向市教育委員会  若山牧水記念文学館  青磁社

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「牧水研究」は、宮崎の出版社(鉱脈社)から年2回刊行されている冊子です。
いま7号まで出ていますが、私も30枚くらいの論文を、載せています。
今年のゴールデンウィークも、8号の原稿をずっと書き続けていました。
なかなか入手しにくい冊子ですが、当日はバックナンバーも販売されると思います。
牧水に関する貴重な資料が掲載されていますので、ぜひ一度、手にとってみてください。

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 さて、「短歌往来」は、評論月評というコーナーを昨年から設けており、岩井謙一さんが今年は執筆している。

 6月号を読むと、こんなことが書かれてある。

「穂村(弘)の短歌研究賞を受賞した一連は、小学生の目線から歌が作られていると考えられる。私は地方紙の主に小学生を対象とした学園歌壇というものの選を行っている。毎週小学生の作った短歌に多数触れている。大人の短歌を読むより多いほどである。そのような子供たちの短歌作品に慣れた目で穂村の歌を読んで、全く魅力を感じないのである。歌自体の完成度も小学生の作品の方が高い。」

と述べ、小学生の歌を2首引用し、

「以上の作品は小学生の作品であるが優れた個性と表現力、瑞々しい感性に充ちている。これらの作品と比較して穂村の小学生短歌は確実に劣っている。つまり小学生の感性と、穂村の感性では明らかに穂村の感性が劣っているのである。つまり小学生レベルでは穂村の短歌は勝負にならないのである。」

と、まあ、罵倒に近い書き方をしている。
 しかし、どうなんだろうか。岩井さんの引いている小学生の歌のうちの一つは、まちがいなく、梅内美華子の『横断歩道(ゼブラ・ゾーン)』の巻頭の一首の模倣作なのである。(一首のうち、第4句目以外はほとんど同じ。)
 梅内さんのこの歌はかなり有名なので、見落とすのはどうかな、とも思うが、私もこの手のミスはしかねないと思うので、それについては何も言わない。
 ただ、岩井さんの場合、小学生は「瑞々しい感性」に満ちた純粋な存在だという、思い込みがあるのではないか。そして、小学生(善)VS穂村弘(悪)という単純な二元論で読んでしまう。
 しかし、現実の世界はそのように単純に色分けできるものではない。小学生にだって、梅内美華子などの先行する作品に強く影響されていることはあるのであり、穂村弘もさまざまな作品をつくっている。「穂村の感性が劣っている」と、そう簡単に言えるものなんだろうか。そんなことが言えるのは、かなり傲慢な人間だけであるようにおもう。
 批評において、相手の作品を批判的に書く場合、これはあくまでも私のルールだが、具体的な作品を挙げ、その相手がなぜそのような歌を作ったのかを、なるべくじっくり考えるようにしている。そして、できれば、自分が良いと思った歌を、同時に引用するようにしている。岩井さんのように、穂村の歌を一首も引かずに非難するのは、フェアとは言えないように思う。
 もちろん私も、穂村の最近の作品にそれほど肯定的なのではない。しかし、たとえば、

  僕んちに電話が来たぞつやつやのボディーに映る3つの笑顔   角川「短歌」5月号

といった歌を、穂村が作る理由は理解できる気がする。
 電話を家で初めて買う、ということが大きなドラマだった時代があった(私の場合、さすがに電話は物心つく前から家にあったが、自家用車が小学生のころ初めて家に来たときは、衝撃だった。よくおぼえている)。
 そして、そんな家庭製品を買うことで、家族の絆が確かめられた時代もあったのである。「3つの笑顔」とあるから、父・母・僕の核家族(ニュー・ファミリーとか言われた)で、顔を寄せ合って新品の電話を見つめていたわけだ。 
 しかし、今では一家で物を買うという感動は薄れてきている。電話も、一人一台ずつケータイをもち、家族は奇妙なかたちで分断されてゆく。ソフトバンクのCMのホワイト家族は、それを視覚的に鮮やかにあらわしている。
 穂村が歌おうとしているのは、消費がコミュニケーションと直接つながっていた時代への懐かしさなのだろうと私は考える。だから、それを現在の小学生の短歌と比べるようなことをしても、ほとんど意味がないだろう。
 もちろん、穂村の意図を踏まえたうえで、彼の短歌を批判するのは、生産的な批評行為である。
 たとえば、過去を回顧するより、現在の家族の危機を短歌で追求するほうが、重要なのではないか、とか。たとえば、「つやつやのボディーに映る3つの笑顔」は、ドラマの書割のようで、あまり奥行きを感じないのではないか、とか。それから、同じ一連に「今にして思えばメトロン星人も味噌汁飲んでたにちがいない」という歌があるのだが、こういった作は、ウルトラセブンのマニアにしか通じない、狭い領域に入り込んでいる感じがする、とか。
 しかし、岩井さんのように、初めから「穂村の歌は分からない」と決めつけるようにして読むのは、私は賛成できない。もちろん、分からない歌があるのはしょうがない。けれども、読者の側から、分かろうとする努力も必要なんじゃないのか。私の場合、初心のころ、岡井隆の『朝狩』がさっぱり理解できなかった。それなのに、非常に高い評価をされているのが、納得できなかった。しかし、長く短歌を続けていると、しだいにその良さがわかってくる(もっとも、今でもわからない歌もある)。すぐに「分からない」と言うのは、作品とのコミュニケーションを断ち切ってしまうことである。「よく分からないけど、私はこのように読んでみました。あなたは、どういうふうに読んでいますか?」という問いかけが存在すること。それが、〈開かれた批評〉というものなのではないか。
 岩井さんは、

「小学生が穂村の作品に触れ、短歌とはこのようなものかと誤解することが最も恐ろしい。」

と書いている。その言い方をお借りすれば、

「乱暴な評論を読んで、短歌批評とはこのようなものかと誤解されることが最も恐ろしい。」

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